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ちょいさぁ! 

 

五日市八幡神社

五日市6丁目にある、五日市八幡神社(イツカイチハチマンジンジャ)と読みます。五日市八幡神社を本拠地として、佐伯区海老山町にある『塩屋神社』も系列の神社です。五日市3丁目の『若宮神社』五日市2丁目にある『五つ神社』も傘下になります。

御輿復活
広島弁プロジェクトX:四半世紀を取り戻した男たち―



【五日市八幡(はちまん)神社・五日市6丁目3-13】

神輿の中止

では早速きっかけからじゃて。
ワシらが子供の頃の五日市の祭りいうたらそりゃあ賑やかな祭りで神社境内には多くの屋台や見世物小屋など並び、子供心にも祭りに参加したい、見に行ってみたいと思うとりました。
喧嘩神輿の渡御の沿線には待ち構える見物人の人だかりで子供は肩車してもらわにゃあ見えん位じゃったです。
青年団の連中が神輿を担ぐんじゃけど下っ端は担がせてもらえんし、いざ喧嘩が始まると青年団OBたちも神輿のまわりの取り巻きでおったのが、その雰囲気に呑まれて一緒に喧嘩に参加したり、応援したりそりゃあすごかったです。
そんな喧嘩神輿も怪我人が出たりして警察から止められ中止になりました。

ワシらが小学生の時までは子供会で俵御輿を担いで、担いだらお小遣いがもらえてそのお金を握って祭りの夜店に行っていました。
でも中学生になったら青年団に入って喧嘩神輿を担ぐんじゃ!と憧れていました。
中学生になり憧れの青年団に入ってもなかなか喧嘩神輿には触らせてももらえなんだ。祭りの飾りの天蓋を切ったり、注連縄を町内に張って歩いたりと学校から帰って夜、そういった作業をして、手はマメだらけ。
祭り当日も神輿は担げず神輿の後について歩くだけ、やっと担がしてもろうたのは高校に入ってからじゃったと記憶しとります。
ワシが高校3年の時やっと白法被(幹部だけ着れる)を着せてもろうたのが喧嘩神輿最後の年じゃったです。
警察から「今度喧嘩したら、もう神輿は出させん」 と言われとったのに喧嘩したけえ です。そりゃあ喧嘩せん喧嘩神輿なんかホップの効いてないビ−ルみたいなもんで、喧嘩見たさに見物客も大勢来ていつするか、どこでするかとずっと神輿について歩いたくらいですけえ喧嘩せなんだらおもしろうも何ともない。
そうして五日市の喧嘩神輿は終わり、青年団も自然解散となり12年前の平成6年まで子ども会の俵御輿と氏子青年団(今までの青年団とは違い、お祭りの役員さんみたいなもの)のお世話する子供神輿しかお祭りの時出るおみこしはなかったんでがんす。
この間の子供神輿はそれまでの大人の喧嘩神輿と同様、五日市八幡神社から3体の神さんを乗せてお旅所塩屋神社まで行っとりました。 




【秋祭りの大幟】

復活のきっかけ

ウチの子供が子ども会に入りお祭りで俵御輿を担ぐ事になり「子供会役員のお父さん方もお手伝いください」と女房から「手伝って」と言われお手伝いしたのがそもそものきっかけじゃったです。
それから毎年秋祭りには子ども会の俵みこしのお手伝いをするようになり、片付けの後の打ち上げのお酒の席で昔の祭りの事を聞かれたりする内に、やはり昔は青年団で喧嘩神輿を担いでおりんさった先輩もその打ち上げの時おられ、「昔の祭りは賑やかじゃったよのう、是非あの頃の喧嘩神輿を今の子供たちにも見せてやりたいよのう」 などと話していると、町内会長の内の一人が「本気でそう思うんならやりませんか?この地区10町内会の会長さんたちには私が協力をお願いしますよ」と言われ「是非話してみつかあさい」とお願いしました。
後日、10町内会長の集まる席に私と先輩が呼ばれ、各町内会長から「是非ええ事じゃけえやってつかあさい。その代わり動くのは全てあんたらでやってつかあさいよ、ワシらは年寄りじゃけえ、よう動かんけえ」と言われ「なんじゃ、結局われわれだけで動くしかないんじゃ」とそれまで「誰かがリ−ダ−シップをとって動いてくれるのでは」という甘い考えが心の片隅にあったのが吹っ飛んで、「よ−し! 絶対やってやる! 復活させてやる」と熱い気持ちが湧いてきたのもこの時が初めてじゃったです。





【八幡神社・参道入口と鳥居】

人集め資金集め

最初の年は人集めに特に苦労した。私のところの町内会長さんがよう動いてくれんさったので助かった。喧嘩神輿復活が目的だけど、喧嘩神輿は壊れたまま神社に納められている。修理の見積もりを取ったら、150万円位の見積もりが出た。
26年ぶりに復活させようとする我々にはまず資金が無い。何の活動するにも資金が無い。資金集めにはまず俵御輿をみんなで担いで町内を回り、「花」と称するご祝儀を集めにゃあいけん。
その俵御輿も汚れ傷んだまま集会所に保管してあった。
まず発起人の組織作りをせにゃあならんので、1軒1軒昔の青年の自宅を訪ね事情説明し賛同してくれる人を集め最初の発起人衆が決まった。
その人たちで休みの日を利用して俵御輿を修理し、塗装しその年の秋までにはなんとか格好はついた。

五日市の秋祭りでは昔から俵御輿は町内を担いで回って花(ご祝儀)を集める事ができるが、喧嘩神輿を担いでも花(ご祝儀)は集めんという決まりがある。ほいじゃけえ、まず俵御輿を直して資金集めをせにゃあいけません。
いざ担ぐにも法被くらい揃えにゃあカッコつかん、かといって法被買うお金も無い、一着¥5000。60人分として30万円。
集会所から借金しました。(これにも集会所運営委員会の了解が必要である。)
俵御輿を担ぐには木遣り音頭を詠える人をお願いせにゃあイケン。昔詠いおっちゃった人にお願いするが、みなさん年をとっておられ、「はあ、長い事詠うとらんけえ、よう詠わん」とか「はあ、年じゃけえ御輿にようついて歩かん」 などと断られる。それでもあちこち探してやっと2〜3名の詠い手をお願いする事ができた。





【神輿 左より三之宮・一之宮・二之宮】

復活の準備

担ぎ手も80人位物珍しさもあってか集まったんで法被が足らん。子供会のお父さん方には子供会の法被を着てもろうた。各町内会長さんには交通整理をお願いし、警察にも道路使用許可をもらい、お花集めの女性群もチ−ムを作り、担いだ後の打ち上げ用の食事の世話や途中休憩の時のおむすびを作ってもらう炊き出しチ−ム、色々と裏方のお世話をしていただく方々等準備はできた。

御輿担いでも見てくれる人が少なかったらさえんし、最初は担ぎ手が集まるかどうかも心配じゃったし、26年ぶりに復活させるというのも町のニュ−スじゃし、幸い我が佐伯区(五日市)にはチャンネルUというケ−ブルテレビがある。こりゃあひとつ営業に行って宣伝しとこうと、チャンネルUに行き、事情を話し是非取材して前宣伝して欲しいとお願いした。あくまでも目標は喧嘩神輿を復活させる事にあるが今年はその前段階として俵御輿を修理して出すのだと。
応対してくれた二人のスタッフは快く引き受けてくれ、早速俵の修理風景、木遣り音頭の練習風景などを収録に来られ、すぐ編集して流してもろうた。
俵御輿の運行コ−スも決め、いよいよ本番。五日市の秋祭りは昔は10月の9日10日と決まっとったが、今は10月の第二土日。土曜日は今まで通り子供会の俵御輿のお手伝いがある、子供会の俵が終わって打ち上げにも少しだけ顔を出した後で我々の俵御輿を組み立てせにゃあならん。
組み立ては、担ぎ棒を麻縄で縛る。麻縄はもう古うて使い物にならんので新しい物を船舶用具店で購入した。御輿本体の飾りつけは日曜日の朝早ように行う。
御輿の土台に長老の指示通り横棒、縦棒を置き、麻縄で縛っていく。縛った後で楔を打ち込み、更にきつう締める。そしてたっぷりの水を麻縄にかける。水をかけることにより麻縄はさらに締まっていくんじゃ。
ここまでやってお互いの苦労をねぎらいながら明日の本番がうまくいくか心配しながら一杯飲む。飲みながら途中でまた麻縄に水をかけ、夜もふけそれぞれの自宅に帰る前にまた水をかけ、シ−トをかけて帰った。




【俵もみ・音頭取りの先を行く猿田彦(先んぼう)ハナンボウ】

俵御輿復活

朝早ようから集会所に行って、御輿の縄に水をかけ、台の上に俵を乗せ屋根を乗せ飾りをつけて皆が集まってくるまでには役員だけで完成させとく。ある者は来てもらった人に署名してもろうて名簿作り(来年のために)をしたり、女性群は炊き出しの準備をしたり、花集めのグッズを準備したりとみな忙しい。
集合時間には随分の人が集まってくれた。出発前に御輿の担ぎ方、諸注意等を説明し怪我のないようにせにゃあならん。
木遣りから始まっていよいよ出発。初めは掛け声もええがに揃わんし、声も小さいが慣れるに従うて格好ついてくるもんじゃ。
御輿の通る沿道では聞きなれぬ男どもの掛け声にどうした事かとみんな外にでてくる。
お年寄りは昔を懐かしがって感無量の様子じゃ。ケ−ブルテレビもカメラマンとインタビュア−がずっとつきっきりで御輿と同行して撮影してくれた。
町内を練り歩いて、最後に五日市八幡神社に行って御蔵米を奉納する。神社では最後の力を振り絞って俵御輿をもみまくる(ゆすったり、高う放り投げたりする)。神社にはうわさを聞いて見に来てくれた人も多く、担ぎ手も疲れとるが一生懸命じゃ。
奉納した後は集会所に帰って打ち上げ、時間を見計ろうて女性群が支度をしてくれとる。この時の開放感、同じ苦しみを共有した連帯感が仲間意識を育ててくれる。酒を酌み交わし談笑して夜も更ける。
打ち上げの前に役員の一部は御輿を片付けにゃあいけんがそれはすぐ終わり、打ち上げに合流する。
そうやって最初の年は終わった。




【神輿・一之宮】

その後

最初の年の俵もみは無事終了したが、反省会で法被が足らんかったんで、来年はもう少し増やそう、上は法被で揃うとったが下がジ−パンやら替えズボンやらトレパンやら半ズボンやらおって格好悪い!来年は揃えよう。
などなど反省材料には不足せんかった。またお花集めの女性群が頑張ってくれて結構なお金が集まった。確か50万位じゃったと記憶しとります。ほいじゃが、御輿の修理に使うた材料費(手間代はタダじゃけど)や打ち上げの飲食費その他経費を差し引くと法被の借金を返せるほどにはならん。借金返済はもう少し待ってもらう事にした。
木遣り音頭を詠うてもろうた人たちも、年のせいか俵御輿について歩くのがしんどうて、来年はカンベンしてくれと言いんさる。それで木遣り部というのを作り、若い後継者を育てるために毎月1回教えてもらう事にした。お願いした手前ワシも木遣りを詠うつもりはなかったのに木遣り教室の生徒に加わらざるをえなんだ。
他にも年を重ねる毎にいろんな問題もあったが俵御輿を復活させてから5年目に待望の喧嘩神輿を1台だけじゃけど出す事になった。
とまあ、簡単に説明したらこんな事じゃったと記憶しとります。説明が下手じゃけえ分かりにくかったと思いますが聞きたい事があったら聞いてつかあさい。ケ−ブルテレビの「チャンネルU」は折に触れ祭りの事を放映してくれ、喧嘩神輿が復活するまで毎年祭りの準備から本番まで取材していただきました。感謝しとります。この場を借り、厚く御礼申し上げます。



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